第4陣より、「宮城チーム」と「岩手チーム(宮城県気仙沼市を含む)」に分かれて、同時期に2チームを各10名ずつの別編成で送り出しました。現地の方々が異口同音におっしゃることは、「私たちよりももっと被災して大変な方々がいらっしゃると思いますから、そちらへ物資はまわして下さい」ということです。宮城チームは、宮城県内の仙台市、七ヶ浜町、石巻市、女川市、名取市、岩沼市、亘理町、雄勝町に行ってきました。
11(月)5:45に起床し、物資をもって七ヶ浜へ。まず、「塩釜キリスト教会七ヶ浜伝道所」を訪問。教会前にて、近所の2家族に主に赤ちゃんの用品、おんぶ紐、おもちゃ、粉ミルクなどを渡しました。その伝道所の先生によると、教会員1人の家が流され、亡くなられ、また教会の関係者3家族で6人が亡くなられた、とのこと。高台にあるその教会は、七ヶ浜の地域で唯一の教会です。教会は高台の住宅地の一角にあり、津波の被害からは守られたそうです。ちょうどその地域のお葬式と重なり、留守宅の家が多かったです。今回、塩釜市では物資支援は必要ないようでしたが、塩釜から20分ほど海岸に向かった七ヶ浜ではまだ物資がすごく喜ばれました。「他に被災したママ達にも渡していいですか?」とおもちゃ一箱ももらって下さいました。
その後、石巻に向かいました。いしのみなと教会で、無洗米、飲料水、長靴、みかん一箱などを置いていきました。そして、参加者のIさん(看護師)の強い希望で、K病院へも足を伸ばしました。教会のI先生の親戚のI院長とお会いすることが出来ました。大量のトイレットペーパー大箱7つと、サージカルマスクや生理用品、赤ちゃんの用品、飲料水などが必要だということで物資提供をさせて頂きました。きんつばを「スタッフの方々でどうぞ。」と手渡すと一番喜ばれました。石巻はまだ断水しているところがあり、ライフラインの三点セットがそろっているところは少なかったです。
12日(火)5:45に起床し、石巻専修大学でボランティア登録をし、石巻市清水町のSさん宅へ「アガペーCGN」が派遣されました。浸水した一階の御宅の家財道具など運び出し、津波の水で重くなった畳を外へ出す作業を主にしました。Sさん宅は息子さん45歳と70代のお母様の二人暮らし。女性陣はお母様と浸水した洋服など捨てるものと、洗濯して使うものとに分け、ゴミをまとめました。70代のお母様は元看護婦で、足が悪く、今回の震災で障害者となったようです。弟さんの小学生のお孫さん2人を亡くされ、娘さんの家族の家が大街道にあり、流されてしまったそうです。カウンセリングのようにひたすらお話を聴きました。作業後、持っていた物資の中からウェットティッシュとお茶をお渡ししました。記念撮影をし、お別れをするとお二人とも涙を流して「ありがとう、ありがとう」と喜んで下さりました。短い時間の交わりでしたが、神様は私たちのチームを必要な場所へ送って下さったと感謝しました。石巻専修大学へ戻り、報告書を提出し、現地ボランティアのスタッフの方々にお茶とパウンドケーキをお渡ししました。
石巻専修大学キャンパス内には、多くのテントが設営され、各地から個人や団体のボランティアが寝泊りをしながら、毎日ボランティアとして派遣されています。ボランティア受付のテントの横に、ボランティアの待機場所があり、小さな小屋に自由に取ってよいマスクや軍手、ゴーグル、ウェットティッシュ、スコップ、ゴム手袋などが置かれていました。地元の高校の野球部のメンバーもユニフォーム姿でボランティア登録をしていました。キャンパス内には笑い声が溢れ、活気に満ちていました。ボランティア先の決定は、事務所の中で各家庭から提出された希望リストと、こちら側の提出した資料をマッチングさせて進められます。また、同じボランティア間の情報交換も多くされていました。壁にはお風呂がどこで何時まで空いているか、ガソリンスタンドはどこか、どこのお店がどんなサービスをしているかなどの情報が掲示されていました。
女川町立病院の受付で、物資の有無を伺うと、前回は「御好意だけを頂きます」と断られたが、今回は反対に沢山の物資を喜んで下さった。特に、長靴と下着やTシャツ、靴下、飲み物、掃除用具類が喜ばれました。病院は自家発電で、水はどうにかポンプで組み上げており、ライフラインはまだ復旧していませんでした。パウンドケーキときんつばが喜ばれたが、ひじきの煮物の真空パックや野菜ジュースも喜ばれました。また、駐車場で誘導をしている二人の被災者のおじさんに声をかけると、「子供のおもちゃを是非、小学校の避難所に運んでほしい」ということで、おじさんたちの誘導で女川第一小学校へ行く。特に文房具、絵本、子供のお菓子などが喜ばれました。小学校の体育館の中は先日の余震で、体育館の中の電気が落ちて割れたそうで、実際に避難所ではなくなっていましたが、町の方々が物資を受け取る場所になっていました。今日、無事入学式をしました、とのことであった。物資の中に聖書が含まれていたが、漫画の聖書は子供たちも読むから欲しいとのことで全部置いてきました。
雄勝まで足を延ばす間に、あたりはすっかり暗くなってしまいました。まだまだ通行止めの道があり、途中で道路も割れ目が入っていました。女川以北は、まだまだ復旧の途上にあり、物資支援も喜ばれます。雄勝近辺はほとんど壊滅状態である。帰り道は「ここも道か?」と思うほど大変な道を通りました。
13(水)も5:45に起床し仙台市宮城野区~若林区~名取市~岩沼市~亘理町まで移動。昨日、「ラジオで亘理町の災害対策本部が、小学生用のノート、文具品、筆記用具、そしてレトルト食品でおかずになるようなものが欲しいと言っていた」と伺い、海岸線沿いに南下することにしました。途中、‘オフィス・ベンダー’という業務用の文具店で文具類を大量に購入しました。車のナビに案内してもらうが、予定していた道が通れなかったり、地図にあるべき建物がなかったり、橋が通行止めで通れなかったりと、結局は一気に高速道路を使って亘理町まで行きました。高速道路の上から、被害を受けた様子がよく見えました。広範囲の畑に流された車や粗大ゴミ等が点在していました。仙台市宮城野区と若林区、また仙台空港の周辺は仙台東部高速道路が津波の防波堤の役割を果たしたと聞いていたが、実際には高速道路の反対側も同じように被害を受けていました。
亘理町では主に荒浜地区と吉田地区が被害を受けており、壊してがれきを撤去しなければ、新しくその上に建てることは不可能だろうという感じでした。自衛隊や消防、警察の方々が作業をされていました。通行止めの道が多く、何度もUターンをしなければならなかったので、トラックを運転する方に大変労苦をさせてしまいました。
帰りは出来るだけ高速道路を走らずに、出来るだけ海岸寄りの一般道路を走ろうとしたが、道路ががれきで遮断され幾度となく迂回しなければならなりませんでした。岩沼市も名取市も平地が多く、広範囲での被害を目の当たりにしました。特に、畑や田んぼは再度作物を育てるためには何年もかかるだろうと思われました。
14(木)は、シーサイドバイブルチャペルのN先生に会いました。先週の日曜日には、野外での礼拝が初めて奉げられ、シーサイドチャペル側25名、外部の方25名、合計50名の参加者だったそうです。元々教会の十字架がたっていた木に十字架をもう一度掲げ、色とりどりのお花が植えられ、仮の講壇と、椅子と、そして瓦礫の中から拾われた板にリバイバルの宣言が記されていました。涙なしにはその地に立つことが出来ないほどでした。何もかも破壊された中に、白い十字架が輝いていました。十字架の周りをみんなで手をつなぎ、讃美を奉げ、祈りをささげました。厳かなひと時でした。私たちが持っている物資の全て(スタッフ用の野菜ジュースと私たちのお弁当を二人分、そして栄養ドリンク)をお分けしたら、喜んで下さいました。
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