2012年8月26日

第35次:8月20日(月)~8月22日(水) 岩手県(陸前高田市、大船渡市、盛岡市)、宮城県(栗原市、仙台市)、福島県(郡山市)



アガペーCGNは、震災数ヶ月の時期には、物資が全く届かない地域を調査しては現地の方々に直接物資を車、船、手渡しで届けさせて頂いてきました。しかし、その後は、各地域で復興に向けて中心的に活動しておられる人々や地元社協や行政と協力して、小さくても「ココロのケア」などに取り組んで参りました。具体的には、各地で更なる復興に向けて活躍し続けておられる方々を毎回のように訪問したり、震災の被害を受けながらも最善を信じて生きようと励んでおられる方々を訪ねて行ったり、歌や似顔絵や各種イベントなどを通して楽しいひとときを持っていただいたりさせて頂いております。

今回は、その中でも身を粉にして継続して今なお地域に根ざして仕えておられる住民の方々をほんのわずかではありますが訪問させて頂きました。それぞれに歴史があり、それぞれが賜物を生かし、今自分が置かれている場所でベストをささげておられる姿に感動しました。今回、日程が合わずに、会うことができなかった方々がたくさんおられますが、今回10人以上の方々を訪問し、各場所で数時間お交わりの時を持つことができました。


8月20日(月)

東京 → 宮城県栗原市 → 岩手県陸前高田市 → 岩手県大船渡市

朝7時 東京出発


午後13時過ぎに栗原市のK牧師先生を訪問。支援活動の様子、必要、祈りの課題などを、久しぶりに分かち合うことができました。K先生は、以前より中古車販売店の仕事をされていたので、震災後すぐに販売用の車などを支援活動に惜しみもなく喜んで使っておられました。そして、震災後継続した支援が入っていない沿岸部の地域があることを知っては、すぐに活動を開始。

60歳を超えておられる先生自らが、今でも継続して毎日片道数時間の道のりを2往復し、地元の方々と共に復興に向けて励んでおられます。この日も、「朝からスタッフが先発隊で行っていますが、私も今から行ってきます。みんな待ってくれているのです。」と明るい声で私たちに語ってくださいました。

その後、陸前高田市を訪問。元々、多種多様の新しい仮設店舗が所狭しと並んでいました。
新しい建物の建設も進んでいます。特に、山側にたくさんの建設中の家が目立ちました。





大船渡市の港、漁も戻りつつあります・・・。なぎ倒されていた電信柱も新しくされ、立派に堂々と立っていました。



しかし、海から数100M離れた所には、「地盤沈下のために水はけが未だに悪い土地」「壊れたままの建物」「草がボウボウに生えている線路」もありました。陸橋には「津波注意」「津波浸水想定区域」の看板もありました・・・。






夕方、大船渡市のY医院の理事長先生(医師)を訪問。震災で病院内にヘドロが入って来て、すぐには再会できなかったものの、診療を必要とする人々は日ごとに数を増し・・・急ピッチで病院の「泥だし」「消毒」をし、4日目には診療を再開!しかし、連日あまりにも多くの患者さんが駆け込んで来られるのに、薬がない・・・高速道路の閉鎖、ガソリン不足で薬の運搬ができなかったようです。当時、おもだった避難所にはそれでも早期に大量の薬が届けられていたようですが、地元に根ざした各病院には薬が届いていなかったようです・・・。在宅避難の方も、避難所の方も多くの方々は、「知らない避難所のお医者さん」に看てもらうよりは、「地元の信頼できるY医院」に駆け込まれる・・・。電車が動かないので3時間ほどかけて真っ暗なトンネルや瓦礫をこえてようやくY医院に辿り着いたのに、継続的に薬を飲み続けなければならない患者さんにさえ、お渡しできる薬はわずか数日分のみ・・・。ユーモラスかつ多趣味多芸の先生は、町の人々のココロに寄り添い、共にここまで復興に励んでこられました。薬がなくても、Y先生の顔を見たら元気が出てくる方々もたくさん☆一方で、多くの人が現実を受け入れることができずに震災をきっかけに鬱になったり、自ら命を断つ人がいたり・・・いろいろなことがあられたようです。これからも地元に根ざして、共に笑い、共に泣く素敵な先生としてさらにご活躍下さいませ☆




22時過ぎに宿に到着。23時就寝。


8月21日(火)
岩手県大船渡市 → 岩手県盛岡市 → 宮城県仙台市

朝5時起床  6時出発


大槌町に行く際に、通い慣れた道ではありましたが、朝靄がすごく、神秘的でした。ようやく、霧が切れたところで雄大な自然を写真に収めたかったのですが・・・。でも、本当に緑がとってもきれいでした!

まずは、盛岡市から北に50Kmほどの所に位置するK牧場のF施設長さんを訪問。K牧場では、大自然の中で心身にハンディを持たれている人々が仲間達と共に働いておられます。「みことばクッキー」もここで生まれました。震災後、ほとんどのメンバーは直接現地に行くことは難しかったですが、熱心にお祈りをしてくれていたようです。特に病弱の○○さんは、一旦祈り出すと数時間祈り続けてくれるようです。また、復興に向けて、全国の幼稚園児が描いた絵と言葉を焼き付けたクッキーを沿岸部に配ってくれるチームが与えられたので、そのクッキーの制作にも励んでくれました。K牧場のパンやジャムなどは、地元の観光みやげ店などでも目玉商品のようで、あちこちで商品の幟(のぼり)もたくさん立っていました。食パンをいただきましたが、生まれてからこんなおいしいパンを食べたことないと言うほどおいしかったです!片手で一斤を持つのも大変なくらい重く、ずっしりしており、しかも、バターやジャムなど何もつけなくても最高においしかったです。私たちは車で移動しながら、交代で食事をすることが多いのですが、この日の昼食は食パンを4人で分けて食べただけで満足でした(笑)。





その後、盛岡市のM医院を訪問。とても柔和で、優しく、人の痛みに気づき寄り添うことを大切としておられる先生でした。地元で多くの患者さんに信頼されているお医者さんだなあ~と思いました。震災で多くの人たちが精神的に不安を抱え、特にどこかが悪いわけではないけど腹痛や頭痛を訴える人々や子ども達が急増。そんなときにも、M先生は、いつもと変わらぬ笑顔と穏やかな口調で一人ひとりに向き合い、人々に安心を届けておられました。自分たちの家が倒壊したり、家族が流されたり・・・というような、直接目に見える被害がなくても、精神的な不安や苦痛はやはりあったようです。また、意外に多くの方々が震災後、沿岸部から盛岡市などの内部に仕事と家を探して引っ越して来られているようです。続けて住民のみなさんが復興に向けて心身共に健康で過ごせるように先生のご活躍をお祈りさせて頂きます。


 その後、宮城県仙台市で看護師のOさんにお会いさせて頂きました。家族や親戚の多くが被災し、大切なお母様も津波で天に送られたOさんのお話に涙を禁じることはできませんでした。そのようなOさんは震災後も地元の看護師として日々人々の必要に応えておられます。


Oさんは、「なぜ?今まで見慣れた景色も、ココロも全てが灰色になってしまったときに、大切な家族や物理的な距離が離れていても励ましてくれる「友」がいることが何よりもの支えでした。沈むココロに共に歩んでくれた友に感謝します」とおっしゃっていました。筆舌しがたい体験をされたOさんだからこそ、嘆き悲しむ人々の「心の友」として寄り添えることでしょう。

続きまして、3・11の震災で海から1Kmも離れていないようなところに位置する「1階部分+屋上」の低い小学校(全壊)の屋上に避難していながら、数年前から始まった避難訓練通りに避難してきた地域の方々と子ども達が数日後に、全員が無事救出されたった宮城県の公立小学校のI校長先生とのお話の機会が与えられました。当時のことを、まるで昨日のことのようにはっきりと覚えておられ、お話してくださいました。


それぞれに置かれた場所で忠実に人々に仕えておられる姿に感動しました。時折、先生自身が涙ぐまれながら語られる言葉の一つ一つに「命の重み」を感じました。学校の屋上に取り残こされている真っ暗な夜に、近隣での相次ぐ爆発・・・しかも真っ赤な火の手が何百人もの人がひしめき合う学校の屋上に徐々に近づいてくる・・・。多くの人々がパニックになり、それぞれが同時に「良い」と思うことをしようとしてみるが、実際的な救出方法ではない・・・。I先生自身は大きな明るい声で基本的にお話されていましたが、やはり当時の話になると、時折、声をつまらせる場面も・・・。未来に向けて希望を持って一歩ずつ踏み出しつつありますが、体験した者でしかわからない痛みがまだまだあることをココロの深くで感じることができました。


震災のストレスは犬にも大きかったようです。3・11の後、あちこちで「多くの動物が、それぞれに今までとらなかったような行動をとるようになった」と言う話を伺ってきましたが、このワンちゃんも余震の度にブルブルと震えて怯え、数ヶ月間、精神安定剤が必要だったようです。

しかも、飼い主が、ペットショップの長い列に並んで薬を手に入れる必要があったようです。幸い薬の効果は良く、飼い主たちの愛情もあり、今は落ち着いてきているとのことで良かったです☆


夜22時過ぎに宿に着き、就寝


8月22日(水)  宮城県仙台市 → 福島県郡山市

6時半起床 7時半出発


福島県郡山市に到着後、福島県の乳幼児にペットボトルの水を配布しているNPO法人の倉庫に久しぶりに足を運びました。お忙しい中、スタッフの方が丁寧に案内してくださいました。

暑い中、空調のない倉庫で連日ボランティアの方が汗水流して子ども達のために励んでおられる姿に感動しました。この団体を通して日本各地、世界中から多くの善意の水が福島の必要な地域の必要な人に配られ、震災後既に100万本が既に乳幼児たちのために配られました。今も、倉庫に45トンほどの水が置かれていますが、これも8月中には全て配布予約が既に決まっています。福島県の方で必要な方は母子手帳などの掲示でどなたでも配布できますが、完全予約制になっています。完全予約制にするまでは、水の配布日には1キロ以上の行列ができていたようです。




手前のテーブルで予約用紙を記入します。登録する間、子ども達が安全に遊べるように様々に工夫されていました。

また、お水の配給を受けておられるお母さん達の「生の声」が書かれているノートがありました。

一部を紹介させて頂きますと・・・

「放射能の中での生活は思ったよりも精神面で辛く、子供達の体に今後どのようなことが起こるのか心配です。それを少しでも減らすために、口に入れるものは良いものをと思っています。~。」

「震災後なるべく食べ物や飲み物に気をつけて生活してきました。しかし精神的にも経済的にも大変です。~。大切な水、大変助かります。」

「これから出産を控えており、色々と心配な中、このような支援があるととてもうれしいです。ありがとうございます。」

「妊娠中なのでとても助かっています。これからも続けて頂けると子供も安心して育てられるような気がします。暑い中ご苦労様です。」

「子どもが5人いるのですごく助かります。」

「いくら大丈夫と言われても、今でも自宅で作った米や野菜も本当に大丈夫なのか不安です。早く放射能が消えてくれればいいのにと願っています。」

「我が家の場合、4人家族で月に70リットルほど水を使用していると思います。~。」

「水道水は大丈夫だと言われても正直心配です。今はまだ世間で騒がれていますが、徐々に忘れられていくのではないかとても気になっています。どうか幼い命を今だけでなく、ずっと支えて行けるよう援助をお願いします。」

「今のところ避難は考えていません。仕事、経済上の理由など・・・。本当は避難できたら一番良いのでしょうが、ここで生きていくと決めた以上、できる限りのことは子供達にしてあげたいと思います。その中の一つが、食べ物、飲み物に充分に気をつけてあげることです。将来、親も子供も後悔することがないよう、避難できなかったからと言って子供達に不自由な思いをさせないためにも努力していきたいと思います。食べることは生きること。福島の子ども達のために継続した支援をどうぞよろしくお願いします。」

「安心して飲める水があるということはすごくうれしいことです。」

「家族とずっと一緒にいたいので郡山から出て行くことは考えないようにしました。しかし、常に不安な毎日を過ごしているのが現状です。お水が頂けるのは本当に感謝です。」

「炊飯やみそ汁・・・子ども達の食事にはすべてペットボトルの水を使用しています。」

「以前から話を聞いていましたがようやく今日来ることができました。ありがとうございます。」

「山積みになった段ボールの水を見るたびに頭が下がる思いで心が一杯になります。その一本一本を毎日大切に飲ませて頂いております。この感謝の気持ちは絶対に忘れません。本当に心強いです。ありがとうございます。」

「一日も普通の生活に戻りたい。外で遊ぶことも制限されている今・・・全然復興していません。一日も早い復興を!」

水配布の様子。相当の重労働です。


未だに郡山市内で外を歩いている人々の数は極端に少なかったです。以前は、夏休みなどには、たくさんの人が利用していた公園も、誰もいませんでした・・・。

地域にもよるようですが、学校に行く際には、マスクを必ず着用しないといけない学校もあるようです。暑い時期のマスク・・・。そんな情報も流れているからか、水に加えてマスクの物資も時折入ってくるようです。


その後、S牧師先生達との交わりの時を持ちました。震災後S先生達は支援団体を建て上げ、地域に仕えておられます。もともとS先生たちは、福島県出身ではありません。かわいい子ども達も2人おられます。


震災後、何なりと理由をつけて、福島という土地を離れる選択もできたでしょうが、子ども達から「大丈夫だよ。神様が守ってくれる。」と言われ、「福島、この地にとどまる。共に生きる」という選択をされました。

生まれも育ちも福島県の人たちでさえ、多くの人たちが故郷を離れていった時期に、もともと福島住民でないS先生達が「とどまる」決断をしたことは、大混乱に陥っていた地域住民の中に言葉にならない相当の感動を与えたようです。S先生たちから、新聞やテレビなどでは報道されていない当時の様子や、現在の課題など、生の声をたくさん聞くことができました。震災後、お母さんと子ども達は他の地域に避難し、経済的な必要のために、お父さんは福島に残って単身赴任・・・。弱音を吐く場所もなく、友人達も散り散りバラバラ・・・。お父さん達の鬱や自殺も増えてきているようです。震災前の楽しい時を思い出したのか、子ども達の写真を机にいっぱい並べての自殺・・・。誰か気づけなかったのでしょうか? どうすればそのようなことから救えるのでしょうか? 祈り続け、誰かが誰かに届いていけると良いのですが・・・。仮設住宅を訪問しても未だに多くの人たちが「朝食食べて、昼食べて、夕食食べて寝るだけ・・・何もすることがない。仕事もない。将来の見通しも持てない。どうしたらいいのか誰か教えてほしい。気が狂いそうだ。でも、自分のことを気にかけてくれている人がいるということが分かった。生きる励みになる。話し相手がほしい。また来てほしい。続けて来てほしい。」と訴えられるようです。そのようなニーズに応じて被災地のあちこちで移動カフェが始められています。


さて、福島県郡山市でカフェを通して人々のココロに寄り添っている仲間達とのひととき☆
「感じていることを分かち合える仲間がいる」「ありのままの自分で大丈夫。裁かれない」ということが本当の安心につながる・・・とても素晴らしいことです。ここ数ヶ月は訪問できていなかったので、久しぶりの再会を共に喜び合いました☆




震災直後から福島県の避難所として沿岸部の大勢の方々が過ごされていました。トイレの手前まで隙間なく段ボールで仕切られた空間に人々がひしめき合っていたようです。今でも、この建物の中に、たくさんの福島県の仮設住宅が建っているようです。その時の様子や対応、今後の課題など、地元の方からお話を伺う機会が与えられ、今後の支援活動の参考になりました。


 福島県の地元の方が私たちのために・・・と愛を込めてお弁当を作ってくださいました。地元でとれた新鮮な野菜をつかった素材のうまみを生かしたお弁当でした。実においしかったです。阿武隈(福島)産のプチトマトもぎっしりとうまみが詰め込んであり、充実感があっておいしかったです☆わずか1時間ほどでしたが、作ってくださった方と一緒に過ごすことができお互いに喜びで満ちあふれていました☆


福島県の田畑も収穫の秋を迎えようとしています。風にたなびく黄金色の稲を見て「風評被害から解放されますように!」と思わず祈りが湧いてきました。



美しい自然の姿にココロ癒されながら一路東京へ。空も、木々も、川も・・・きれいでした。



残念ながら、今回はいつも訪問する大槌町に訪問することは時間の都合でどうしてもできませんでしたが、電話などでご連絡させて頂きました。みなさん「暑い中ですが守られています。また来てくださいね。待っています。」「忘れられたかと思ったよ(笑)。また来てね!待っていますよ!」とのことでした。

みなさんのお祈りありがとうございます!

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