今回「垂直避難」という言葉を初めて聞きました。複数の訪問先で質問を受けたのですが、隊員も知りませんでしたので、携帯で検索してみると「垂直避難とは、災害時に身に危険が迫っているが、安全な場所まで避難する時間がない場合、安全な場所と空間を確保するために上下垂直方向に避難することを言う。」とのことでした。ちなみに、「水平避難」は「避難所などに避難すること」だそうです。実は、台風19号で川が決壊になった時に町内放送で「垂直避難してください」と言われたそうで、「『垂直避難』って何?初めて聞いた言葉だよ」「東西南北、どっち向いて逃げれば良いの?」って非常に困ったそうです。後で、関係者に聞くと「マニュアル通り・・・」だったそうで・・・。町の人たちから「住んでいる人のわかる言葉で話してくれないと理解できない。せめて、『垂直避難してください。2階以上の高いところにすぐに避難してください』と具体的に言ってくれたら分かるんだけどなあ」という声を聞き、なるほどその通りだなと思いました。
<12月25日(水)>
夜行バスで現地入りしました。
<12月26日(木)>
7時半、予定通りに到着。
多くの地域に避難勧告が出た台風19号の水害の爪痕は今も残っております。
堤防は崩れたままで土嚢が置かれていました。
広い川幅の川は、土の堤防が崩れたままで石でいっぱいでした。
移動中「おおちゃんバス」とご対面~。
まずは、町の高台へ。一人の婦人が、かなり長い時間ベンチに座って無言で町を眺めておられました・・・。この高台に上れた(がけをよじ登れた)人は助かりました・・・海が二つに割れて海の底が見えた証言も複数ある高台です。この高台には毎回必ず上がって、町を見てきました。海はそんなに近くもないのですが、この高台の数メートル下まで津波が来たのです・・・。更地にするのにも数年がかかり、その後、数年かけての盛り土・・・そして、徐々に商店がポツポツと建ってきました。
その後、数日ずっと連絡がとれない方を訪問・・・。隣の方に聞くと・・・「23日朝4時半頃に救急車で運ばれていったよ・・・」とのこと。一人残された耳の不自由な息子さんにも会え、「今年で3回目の入院。インフルエンザ感染予防のこともあり、家族でも面会できない。手紙なら届けれるよ」とのこと・・・。地域のリーダーたちに連絡して、それぞれに「今」できる最善を尽くさせて頂くことで継続的に寄り添えるように話し合えしました。
数年前から増える「死後数日以降たってから発見の孤独死」・・・。地元の人たちの「ここは田舎だし、震災前は、隣近所助け合って過ごせていた・・・でも震災後、避難所、仮設住宅、復興住宅・・・。引っ越しのたびに仲良くなった近所さんとは離ればなれになり、またほぼゼロからの新しい人間関係形成。若いときや、元気なうちはそれでも良いけど、高齢になってきたり、心身が不自由になってきたらそのエネルギーがなかなか出てこない・・・。誰に助けを求めて良いかもわからない。」との声は以前から何度も聞いてきました。「孤立化、孤独化・・・変な話だけど、復興住宅よりは、隣の音が聞こえる仮設住宅の方がまだ良かったかな」とおっしゃる高齢者の方が意外に多いです。
その後、港へ。「ばぁ~や」たちは極寒の中いつものように働いていました。本当に働き者です。
その後、7軒訪問。
「あっらま~っ。久しぶり!」
震災後から約9年たった今も、災害に際しての判断にいろんなことがあるそうです。前回の台風の時にも「ワールドカップ期間中の台風による河川氾濫の脅威大~当日になってワールドカップ開催中止が発表~ワールドカップ会場の駐車場を開放するかどうか~もし、そこに避難して波にさらわれたり、被害に遭った場合誰が責任をとる?・・・」「おしゃっちの3階部分(この辺りでは高い建物)を開放する~でも、被災したら誰が責任をとる?」それぞれに思いはあり、どこにどう避難すべきか困ったそうです。
相当の津波の被害に遭い、多くの人が殉職された旧役場を保存するか、解体するかを巡っても何年も町民の中で意見が分かれましたが、2019年3月に解体が終わりました。ある地域のリーダーは「人災と天災の違いだと思う。原爆は人災だから、人間の努力でコントロールできる。だから、保存することに意味がある。でも、津波は天災。いつどこに起こるかもわからないし、人間がコントロールできない。保存することによるメリットよりも、デメリット(被害者のご家族の悲痛)の方が大きすぎる。」とおっしゃっていました。
ある地域のリーダーは、人の顔色を恐れず「手を上げる(発言する)勇気」について語ってくださいました。「震災直後、多くの人たちがイライラして、職員さんたちにあたる人たちもいて・・・『職員さんたちだって同じ被災者。職員さんたちも私たちと同じく何(衣食住)もとってないんですよ。職員さんたちにも分けましょうよ。・・・。』・・・」
また、「震災後全国の皆さんとの出会いに本当に感謝しています。」「いろんな人はいるけど、助け合いの精神でお互いに支え合ってここまでなんとか来れました」「背中を押されてここまでやってこられました」などと分かち合ってくださった方たちもありました。
夕食は「お母さん」と。ゆっくりと話ができました。元気そうで良かった。
宿のジョイフルハウスに戻って分かち合い。
<12月27日(金)>
まずは、港へ。
Aディサービスなど数軒訪問。皆さんお元気そうでした。職員さんたちとも再会を喜びました。
お昼は、仮設店舗「大光そば」で、おそば。
救助犬と警察犬にもご挨拶。
小川旅館で女将さんと大将と震災後の話・・・いくらでも話題があります・・・。法の落とし穴・・・「スタートラインになてないもどかしさ」・・・。でも、今生かされていることを感謝され、おいしい手作り大福を作ってくださいました☆
町の有名人の一人B君に会えました!
その後、4軒訪問。
いつもは、静かな家に東京から孫だけが来ていたり、子供が大きくなって町に出てお一人暮らしになっていたり・・・色々でした。
三陸屋台村おおつち「まるまる横町」が大槌駅前に12月22日にオープン!
台風19号の影響で三陸鉄道はストップしたまま・・・再開通は3月20日予定とのこと。
夜、忙しい「お母さん」とゆっくりとお話ができました。
ジョイフルハウスに戻って、分かち合いタイム。
<12月28日(土)>
6時起床
朝のデボーションの後、若者は宿題タイム!
Cさんと年末の買い出しタイム。Cさんは、去年、心の支えの愛犬と、お父様が突然天に凱旋。病弱のお母様は退院されたばかり。Cさんは、仮設住宅時代に対人恐怖になり、引きこもり生活。そんなCさんも、私たちとは連絡をとってあってくれます。Cさんと一緒に有意義な半日を過ごせました。「お礼に」と刺し子をいただき、喜ぶと、「これ(刺し子)があったから(一人でもくもくと時間を過ごせるものがあったから)、なんとか精神を保ってこれてるの。喜んでもらえたらすごくうれしい・・・」と。
お昼は、「アガペー農園」の皆さんとこの12月にオープンしたばかりの「ジャズ喫茶」で。おいしいコーヒーとトーストでした。初めての訪問でしたが、震災前、地元では有名で、アガペー農園のリーダーもよく通っていた店とのこと。震災で全壊したお店が約9年の年月を経てようやくオープン!店内には震災後の家族の写真集が置かれていました。また、店内にはたくさんのレコードが置かれていていましたが、すべて全国の方からのプレゼントだそうです!
その後、5軒訪問。
あるお店は、移動販売車で各仮設などを回っておられましたが、終了されていました。
某ばあちゃんは、突然、天に凱旋されていました。
最後の挨拶にお母さんに挨拶に行くと、「オリンピック鍋!」と新鮭巻!
ジョイフルハウスの皆さんに祈って送っていただき、夜行バスへ乗り込みました。
<12月29日(日)>
予定通り5時半に東京に到着。
約9年が経とうとしている今、ニーズも変わってきています。
震災後、生まれた子供たちが沢山いますが、天に凱旋された方も多くおられます。
3・11以降、各地で大きな震災が相次いでいますが、多くの人たちが、各地に炊き出しに行ったり、支援物資を送ったり、ボランティアに出かけたり・・・大きな愛を込めて自分たちのできることを喜んでされています。人の出会い、つながりって素敵ですね!
私たちの滞在時間は、本当にわずかな時間ですが、毎回「お帰り」と「家族」の帰省のように喜んで下さいます。継続して電話、手紙、メール、SNS…などで地元のリーダーたちとやりとりをしばしば続けていても、困難があったときに共に身を置けないもどかしさを感じることも多々あります。時間と空間を超えて「祈り」が届くことを信じて、さらに霊・心・体の癒しのために祈っていきたいです。私たちの小さな働きですが、大きな御業を為してくださる神様に委ねて地元のリーダー達、現地チームと連携してこれからも進んで参ります。お祈りありがとうございます!
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