物資の積み込み作業と、人力でのガソリン給油

灯油、米、水、お菓子、カイロ、防寒着、タオルなどの物資を積み込んでいる様子です(左)。被災地ではガソリンスタンドは津波で流されていましたが、地下にあるガソリンタンクは無事で、人力でガソリンを支給しました(右)。

被災地の小学校でのコンサート

岩手県のA小学校でのコンサートの様子です。1年生が特にノリノリでした。演奏に合わせて、全身でトトロの「さんぽ」などを歌ってくれました。

泥だし作業

海から2Kmぐらいの場所にあった事務所も、1.5m床上浸水の被害に遭っていました。次の日に海水は引きましたが、3cmの泥がたまっており、そのこびりついた泥を掃除している様子です。

岩手県での炊き出し

岩手県大槌町で行った炊き出しの下ごしらえをしている様子です。250人分の食事を用意することは相当な力仕事でした(左)。右の写真は、岩手県陸前高田市での地域の人々との昼食会(炊き出し)です。

被災した家の修理と、一軒一軒回っての物資支給

地震でかみ合わせが悪くなり開閉できなくなってしまったAさん宅の扉を、修理している様子です(左)。被災地の一軒一軒に声をかけて、物資を届けました(右)。

2011年4月30日

第5次(岩手チーム):4月25日(月)~28日(木) 陸前高田市、大槌町、気仙沼市

陸前高田市、大槌町、気仙沼市に行ってきました。「大槌町、陸前高田市に物資支援」と「宮城県気仙沼市のAさん宅の泥だし、洗浄、工事」がメインの活動でした。

物資支援では、気仙沼より更に北部の被災地へ、ニーズ調査を兼ねて救援物資(みかん30箱、灯油)を届けました。陸前高田市と大槌町の前回に依頼された場所に、みかん、灯油、食糧、日用品などを受け取って頂きました。また、それ以外にも耳を澄ましてつぶやきをキャッチするようにしました☆積み下ろしを見ていた他の地域の職員が「あらこちらはいいわねモノが届いて…」とつぶやかれるのを聞いて、「必要があれば喜んでお運びしますよ☆」と伝えると、快く情報提供してくださり、より困難しておられるところに物資を届けることができました。難所を除き在宅避難者にとっては、食糧、日用品(トイレットペーパ、ティッシュ)などいくらでも必要はある感じです。これらを探す探査力・開発力が配送者に求められます。





Aさん宅(震災前はAさんの印刷所)では、捨てる紙をトラック積みリサイクル処分所に搬入。浸水によりほとんどの本(商品)が使用できなくなった・・・。いくらかでも使えるものないかと見つめるAさんの心遣いが痛みました。また、Aさんの協力者の申し出で、事務所再建のための事務機器・家具を受け取りにトラック出動。物資配送くらいにしか考えなかった2トンロングトラックも、この日は大活躍でした。

そして、Aさんの近隣の方々に物資・食料を届けたが、ほんのちょっとの物資にもかかわらず大喜びしていただいた。『多くの避難所とは違って、こんなちょっとの物資でも喜んで頂けるのか?!』と驚くほどの反響!それだけ自宅避難者などにはニーズがあるのでしょう。

気仙沼市Aさん宅付近で物資配布

気仙沼市の様子

第5次(宮城チーム):4月25日(月)~28日(木) 仙台市、多賀城市、七ヶ浜町、石巻市、東松島市

宮城チームと岩手チームに分かれて2チームが同時に派遣されました。

<25日(月)>
物資配布

<26日(火)>
石巻の専修大学内にあるボランティアセンターに登録。

女子は、避難所にもなっている塩釜ガス体育館で、大量の衣類などの物資の仕分けに当たりました。各地から送られてきた衣類を、男女別、サイズ別に分けて箱詰めしました。今までは塩釜の職員だけでしていたそうで大変でしたが、今回は一気に作業が進んだと大変喜ばれました。避難民の方々も体育館におられ、時折り配給の物資を選んでおられました。年老いた方々が圧倒的に多く話しかけて下さる方もあり感謝でした。仕分けされた物資は、避難所や近隣の地域に送られ必要を覚える方々に配られるとの事です。


男子は石巻市の被災者の家屋の片付けをしました。センターではボランティアの運搬に車が必要で、8人乗りのワンボックス車は喜ばれ、5人の外部方々が加わって出かけました。その内女性が3名で、それぞれ一人で神奈川や石川県から来ており、仙台に泊まったりして、片道3時間かけて石巻まで来ているとの事。男性一人は年配者で埼玉からで、一人は若く地元石巻の人でした。殆どはボランティア活動は初めてとの事。

午前中はHさん宅の片づけ奉仕で、タンスやサイドボードなどを外の集積所に運び出しました。それ程重いとは思わなかったが、Hさんたちには被災の疲れのためか何かとても重く感じられていたようで、軽々運び出した時は驚いておられました。そして仏壇を他の部屋に移しました。30分ほどの作業でしたが、大変喜んで下さいました。

午後はSさん宅のやはり片づけという事でしたが、実際は移転先への家具の運搬で、トラックを期待していたようでした。年配のお母様と50代位の息子さんの二人暮らしのようで、息子さんはリウマチで足を引きずって歩いておられた。一応会社の人が連休を利用して手伝ってくれる予定であったが、早く大家さんに家を引き渡す必要もありボランティアをお願いした模様。しかし最初はボランティアの事を知らず、濡れた畳の運び出しなど、1時間2万円で業者にお願いしていたとの事で、非常に喜んで下さりました。集積所に出す物を出した後、仏壇、サイドボード2つ、タンス2つなどを数回に分けて車で運びました。最後のサイドボードは少し大きく車に中々収まらず、車を痛めてもいけないので運ばないで大丈夫ですとも言われましたが、何とか入った時には皆に大歓声☆ボレンティアの時間は午後4時までと決められていたが、時間内に終えることが出来ました。

多賀城駅前で自衛隊が野営のお風呂サービスをしており、入浴させて頂きました。沖縄の部隊が奉仕をしており、地域の人に喜ばれていました。

<27日(水)>
天気が守られそうなので、ボランティアに出かけました。ボランティアは雨だと中止になる事が多くなります。七ヶ浜のボランティアセンターに登録。

男性は力仕事、女性はフリー・マーケットをやる事になりました。男性は午前中、10人乗りワゴン車にのって七ヶ浜の北側地区のIさん宅の壊れた塀の撤去で、ハンマーでブロックを壊し、一輪車で瓦礫捨て場まで運ぶ作業をしました。ブロックは意外に壊れやすく、軽作業ではないが、家具運びなどに比べて気を使わずに済み、やりやすい仕事でした。ここは外海ではなく内海に面しているので、浸水はしたが、家は比較的無事な家が多かった模様。しかし、現在は泥も取ったあとで、かつての玄関前には未だに車が横たわっており、壁を壊していたという。横の方にモーターボートが乗り上げられたままでした。現在はこの辺りはライフラインは開通し、ガスはプロパンなので使用可、電話も最近開通したという。震災時は皆、高台の避難所に避難したが、現在は日中、家に帰り片づけたり、生活のために働きに出たりする人が多いという。漁業の町だが、海苔業なども含め、大きな打撃を受けています。またこの辺は非常に高齢者が多く、子供が少ないらしく、高齢者の場合、ボランティアを頼むのも難しい模様。作業していると見ていた隣の家の人が来て「少し自分の家のブロックも撤去してもらえないか」とおっしゃるので、少しだけそちらもやったが、「町役場から幾らかお金が出ているのか?」と質問されました。やはり普通業者は多額のお金がかかるので、ただでしてもらえるボランティアというのは、中々馴染みがないのかもしれない。




お昼までに仕事は終わり、待ち合わせ場所に行くと、消防団の人たちが炊き出しをしていた。ここでは2回目だという。ボランティアセンターでも喜多方ラーメンの炊き出しがされており、ボランティアはそれを頂けることになった。また東北では知られているという女性の歌手の人が皆さんを励ましたいと歌を歌ってくれました。プロというだけあって素晴らしかった。またその人が瓦礫の中からピアノを見つけ、それを使って催しをしたいと申し出られたそうで、職員の方々は目頭を押さえながら感謝しておられました。その様子を宮城放送が録画していました。

午後は、同じ地区のIさん宅で、平地になった所で同じように大きなブロックや石を砕いて運び、ガラスやプラスチックなどゴミを拾っていく作業をしました。夜には自衛隊野営風呂にお世話になりました。

<28日(木)>
第6次の炊出しのリサーチと物資配布地をリサーチしに、まず東松島市を訪ねました。全壊、半壊住宅が多く、残っている宅地を訪ねると、ライフラインは回復し、炊出しなどはよく行われているとのことです。その後、南浜町から渡波地区をリサーチ。渡波3丁目の半壊地区にスーパーの駐車場を見つけ、炊出しは来てはいるようだが、良い場所なので炊出しの了解を頂きました。しかしそこは満潮時には冠水する・・・。そこから牡鹿半島に渡り、大原浜地区の大原小横の地区会館を訪ねましたところ物資はあるが灯油は欲しいということで灯油をお分けしました。
そして隣の地区では物資がないかもしれないと聞き、お訪ねすると、「米や、食料品など物資が欲しい」ということで、大変喜ばれました。その後、鮎川を訪ね、女川町を視察。そいて再度、渡波地区の宇田川町辺りを訪ねるが、満潮も近づいているのかかなり冠水していました。空いている空き地を見つけ、そこで物資配布を行いましたが、この地区はあまり物資も来ておらず、炊出しもないという。すぐに行列が出来、短時間で物資はなくなりました。

牡鹿半島での物資配布

渡波地区

大原浜地区

満潮時刻の朝晩には水かさが50cmになっていました。帰る時間にも水が・・・。


2011年4月16日

第4次(岩手チーム):4月10日(日)~14日(木) 気仙沼市、大槌町、陸前高田市

気仙沼市、大槌町、陸前高田市に行ってきました。第3陣でAさん宅の泥だしと洗浄と大工工事を約束したので今回より数回にわたり、専門の大工数名を加えて派遣することにしました。

宮城県気仙沼市のAさん宅は自宅が海から300mのところにあり全壊。今住われている元事務所(印刷所)は海から2Kmぐらいの場所にありましたが、1.5m床上浸水。次の日に海水は引きましたが3cmの泥がたまりました・・・。こびりついた泥やヘドロを洗い流す掃除が中心ですが、使用不能となった機械などの撤去作業、運搬作業もしました。

初日は、女性の方々は障子や襖、ガラス窓、生活用品などを外で洗浄しました。小さい日常の生活用品が少しずつきれいになると、不思議に先の希望が見えて来るのを感じました。男子は多くの使用不能となった物を外に持ち出し捨てました。思い出のつまった物を家族本人達が捨てるのは大変のようです。他者の協力が必要な作業であると感じました。また、適切な作業道具が必要と思いました。一日目は17時30分の暗くなるまで作業をしました。

2日目、3日目は、アガペーCGNチーム6名全員で清掃作業をしました。Aさん家族3名も加わりました。Aさん家族もお疲れと思いましたが、大きな一つの山場なのでがんばっておられました。男4人、女2人は大変効率が良く、男が4人重い物を四隅持ち、女性が小間物をきれいにする組み合わせは良いと思いました。

Aさんが所属している気仙沼第一聖書バプテスト教会は津波で基礎を残し、流されてしまいました。そこで、これからの礼拝場所として印刷所を当面の礼拝場所として提供しようとしています。そのような中、今回のミッションの一つは、住宅と印刷所の洗浄です。また、もう一つは、印刷所の中に礼拝スペースを創出することです。また、早期に仕事を開始できる環境を整えることです。次回は資材を持ち込んでの大工工事が必要になります。幸いにクリスチャンの大工さんがボランティアを申しこんでくださっています。








床の下まで泥が入っています・・・。床をはがして、専門の大工さんによる大工工事。電気は発電機で使用。





Aさん宅。家の修理。地震で扉のかみ合わせが悪くなり、開閉できなくなっていました。Aさんは、「この扉はもう使えない」と思っておられましたが、無事修理でき、喜んでいただきました。



気仙沼第一聖書バプテスト教会の床がオープンしました☆相当重かったです・・・。




<大槌町、陸前高田市に物資支援>



物資配布(大槌町)
積み降ろし許可をいただき、避難者の皆さんも積み降ろしを手伝ってくださいました。ぼそっと漏らす言葉の中に必要な物といらないものをかぎわける心配りが必要だと思いました。こちらから何が必要ですか?と聞くのも、こころから仕える思いで尋ねないと、なんだか支援の押しつけになってしまいかねないと思いました。ここは比較的小所帯の避難所で自衛隊や行政の物資も届きにくいところです。下着や子供服などあまねく物が必要です。ガソリンも最も必要な物資です。国道45号沿いにはまともなガソリンスタンドがほとんどありませんでした。まだまだ、一般の人にはガソリンはとどきにくく、最も喜ばれました。

A避難所
ご高齢者は多いけれど高齢者用おむつは不要とのことでした。おむつなどは介護施設など限られたところのようです。食料はどこのところでも喜ばれました。昆布の佃煮は喜ばれました。また、PC、コピー機、事務機器が必要との要望がありました。避難所内外で情報をやり取りしたり発信したりする段階にさしかかっていることを感じました。

陸前高田教会
M先生と廃墟と化した町の中で落ち合い、教会にお伺いしました。目の前まで迫った津波の後が生々しく、報告では聞いていましたが、現場で聞くあかしは迫力がありました。運んだ物資が教会を通じて地域に平等に必要に応じて分け合われている様子をお聞きし感謝でした。また、訪問中に地震がありました。ゴーッと音が先に聞こえてそれからグラッ。音の前に『地震が来る』と感じ取るM田先生らの感覚の鋭さの中に、現地でなお渦中に闘う方々のご苦労を思わされました。祈って教会を後にしました。国道45号線の三陸海岸の陸前高田を始め、鉄の町釡石市、大槌町、三陸町、気仙沼など、被害は甚大で言葉を失いました。滞在した気仙沼や大槌町は輪をかけて火災の跡で瓦礫がすすけていた。それぞれの街の被災者の痛みと回復の祈りをさらに強くしました。

第4次(宮城チーム):4月10日(日)~14日(木) 仙台市、七ヶ浜町、石巻市、女川市、名取市、岩沼市、亘理町、雄勝町

第4陣より、「宮城チーム」と「岩手チーム(宮城県気仙沼市を含む)」に分かれて、同時期に2チームを各10名ずつの別編成で送り出しました。現地の方々が異口同音におっしゃることは、「私たちよりももっと被災して大変な方々がいらっしゃると思いますから、そちらへ物資はまわして下さい」ということです。宮城チームは、宮城県内の仙台市、七ヶ浜町、石巻市、女川市、名取市、岩沼市、亘理町、雄勝町に行ってきました。




11(月)5:45に起床し、物資をもって七ヶ浜へ。まず、「塩釜キリスト教会七ヶ浜伝道所」を訪問。教会前にて、近所の2家族に主に赤ちゃんの用品、おんぶ紐、おもちゃ、粉ミルクなどを渡しました。その伝道所の先生によると、教会員1人の家が流され、亡くなられ、また教会の関係者3家族で6人が亡くなられた、とのこと。高台にあるその教会は、七ヶ浜の地域で唯一の教会です。教会は高台の住宅地の一角にあり、津波の被害からは守られたそうです。ちょうどその地域のお葬式と重なり、留守宅の家が多かったです。今回、塩釜市では物資支援は必要ないようでしたが、塩釜から20分ほど海岸に向かった七ヶ浜ではまだ物資がすごく喜ばれました。「他に被災したママ達にも渡していいですか?」とおもちゃ一箱ももらって下さいました。



その後、石巻に向かいました。いしのみなと教会で、無洗米、飲料水、長靴、みかん一箱などを置いていきました。そして、参加者のIさん(看護師)の強い希望で、K病院へも足を伸ばしました。教会のI先生の親戚のI院長とお会いすることが出来ました。大量のトイレットペーパー大箱7つと、サージカルマスクや生理用品、赤ちゃんの用品、飲料水などが必要だということで物資提供をさせて頂きました。きんつばを「スタッフの方々でどうぞ。」と手渡すと一番喜ばれました。石巻はまだ断水しているところがあり、ライフラインの三点セットがそろっているところは少なかったです。




12日(火)5:45に起床し、石巻専修大学でボランティア登録をし、石巻市清水町のSさん宅へ「アガペーCGN」が派遣されました。浸水した一階の御宅の家財道具など運び出し、津波の水で重くなった畳を外へ出す作業を主にしました。Sさん宅は息子さん45歳と70代のお母様の二人暮らし。女性陣はお母様と浸水した洋服など捨てるものと、洗濯して使うものとに分け、ゴミをまとめました。70代のお母様は元看護婦で、足が悪く、今回の震災で障害者となったようです。弟さんの小学生のお孫さん2人を亡くされ、娘さんの家族の家が大街道にあり、流されてしまったそうです。カウンセリングのようにひたすらお話を聴きました。作業後、持っていた物資の中からウェットティッシュとお茶をお渡ししました。記念撮影をし、お別れをするとお二人とも涙を流して「ありがとう、ありがとう」と喜んで下さりました。短い時間の交わりでしたが、神様は私たちのチームを必要な場所へ送って下さったと感謝しました。石巻専修大学へ戻り、報告書を提出し、現地ボランティアのスタッフの方々にお茶とパウンドケーキをお渡ししました。

石巻専修大学キャンパス内には、多くのテントが設営され、各地から個人や団体のボランティアが寝泊りをしながら、毎日ボランティアとして派遣されています。ボランティア受付のテントの横に、ボランティアの待機場所があり、小さな小屋に自由に取ってよいマスクや軍手、ゴーグル、ウェットティッシュ、スコップ、ゴム手袋などが置かれていました。地元の高校の野球部のメンバーもユニフォーム姿でボランティア登録をしていました。キャンパス内には笑い声が溢れ、活気に満ちていました。ボランティア先の決定は、事務所の中で各家庭から提出された希望リストと、こちら側の提出した資料をマッチングさせて進められます。また、同じボランティア間の情報交換も多くされていました。壁にはお風呂がどこで何時まで空いているか、ガソリンスタンドはどこか、どこのお店がどんなサービスをしているかなどの情報が掲示されていました。


女川町立病院の受付で、物資の有無を伺うと、前回は「御好意だけを頂きます」と断られたが、今回は反対に沢山の物資を喜んで下さった。特に、長靴と下着やTシャツ、靴下、飲み物、掃除用具類が喜ばれました。病院は自家発電で、水はどうにかポンプで組み上げており、ライフラインはまだ復旧していませんでした。パウンドケーキときんつばが喜ばれたが、ひじきの煮物の真空パックや野菜ジュースも喜ばれました。また、駐車場で誘導をしている二人の被災者のおじさんに声をかけると、「子供のおもちゃを是非、小学校の避難所に運んでほしい」ということで、おじさんたちの誘導で女川第一小学校へ行く。特に文房具、絵本、子供のお菓子などが喜ばれました。小学校の体育館の中は先日の余震で、体育館の中の電気が落ちて割れたそうで、実際に避難所ではなくなっていましたが、町の方々が物資を受け取る場所になっていました。今日、無事入学式をしました、とのことであった。物資の中に聖書が含まれていたが、漫画の聖書は子供たちも読むから欲しいとのことで全部置いてきました。




雄勝まで足を延ばす間に、あたりはすっかり暗くなってしまいました。まだまだ通行止めの道があり、途中で道路も割れ目が入っていました。女川以北は、まだまだ復旧の途上にあり、物資支援も喜ばれます。雄勝近辺はほとんど壊滅状態である。帰り道は「ここも道か?」と思うほど大変な道を通りました。

13(水)も5:45に起床し仙台市宮城野区~若林区~名取市~岩沼市~亘理町まで移動。昨日、「ラジオで亘理町の災害対策本部が、小学生用のノート、文具品、筆記用具、そしてレトルト食品でおかずになるようなものが欲しいと言っていた」と伺い、海岸線沿いに南下することにしました。途中、‘オフィス・ベンダー’という業務用の文具店で文具類を大量に購入しました。車のナビに案内してもらうが、予定していた道が通れなかったり、地図にあるべき建物がなかったり、橋が通行止めで通れなかったりと、結局は一気に高速道路を使って亘理町まで行きました。高速道路の上から、被害を受けた様子がよく見えました。広範囲の畑に流された車や粗大ゴミ等が点在していました。仙台市宮城野区と若林区、また仙台空港の周辺は仙台東部高速道路が津波の防波堤の役割を果たしたと聞いていたが、実際には高速道路の反対側も同じように被害を受けていました。

亘理町では主に荒浜地区と吉田地区が被害を受けており、壊してがれきを撤去しなければ、新しくその上に建てることは不可能だろうという感じでした。自衛隊や消防、警察の方々が作業をされていました。通行止めの道が多く、何度もUターンをしなければならなかったので、トラックを運転する方に大変労苦をさせてしまいました。

帰りは出来るだけ高速道路を走らずに、出来るだけ海岸寄りの一般道路を走ろうとしたが、道路ががれきで遮断され幾度となく迂回しなければならなりませんでした。岩沼市も名取市も平地が多く、広範囲での被害を目の当たりにしました。特に、畑や田んぼは再度作物を育てるためには何年もかかるだろうと思われました。

14(木)は、シーサイドバイブルチャペルのN先生に会いました。先週の日曜日には、野外での礼拝が初めて奉げられ、シーサイドチャペル側25名、外部の方25名、合計50名の参加者だったそうです。元々教会の十字架がたっていた木に十字架をもう一度掲げ、色とりどりのお花が植えられ、仮の講壇と、椅子と、そして瓦礫の中から拾われた板にリバイバルの宣言が記されていました。涙なしにはその地に立つことが出来ないほどでした。何もかも破壊された中に、白い十字架が輝いていました。十字架の周りをみんなで手をつなぎ、讃美を奉げ、祈りをささげました。厳かなひと時でした。私たちが持っている物資の全て(スタッフ用の野菜ジュースと私たちのお弁当を二人分、そして栄養ドリンク)をお分けしたら、喜んで下さいました。



2011年4月10日

第3次:4月3日(日)~7日(木) 宮城県(仙台市、塩竈市、多賀城市、気仙沼市、東松島市、南三陸町)、岩手県(大船渡市、釜石市、大槌町)

宮城県(仙台市、塩竈市、多賀城市、気仙沼市、東松島市、南三陸町)、岩手県(大船渡市、釜石市、大槌町)に行きました。

地域差もありますが、徐々にガソリンスタンドが動き出してきています。震災後みられた何キロにもわたるガソリンを待つ列は相当短くなってきました。しかも、「緊急車両」の許可書をもっていたら、待つことなく優先的に別のレーンで給油できました。

「ガソリン」は多くの被災地でもお金があれば手に入るようになってきましたが、今度は、多くの人が職場や交通手段の被災のために、失業となり、収入が入らないので、ガソリンも食べ物を買うお金もない・・・という事態に陥りました。そこで、アガペーCGNは食料支援・生活物資(灯油、マスク、靴下、下着、トイレットペーパー、ウェットティシュ、おむつ、タオルなど)支援中心になってきました。そして、震災後3週間になると、「毎日、レトルトご飯とふりかけか、パンか、カップ麺なので元気がなくなってきた。おかずがほしい。野菜がほしい。果物がほしい。おやつがほしい。・・・」という声があちこちで聞かれるようになってきたので、「色々な種類のおかず」「野菜」「みかん」「お菓子」を届けてきました。

<気仙沼市の様子>





<大槌町の様子>




説学校の校舎の中、廊下に車が・・・

被災地のど真ん中に咲く桜

大槌町で物資支給

「あの船がのってるのはおらん家だよ~。おっかなくて帰れない」という方にお会いしました・・・。4階建てか?大きな家の上に巨大な船が乗っています。いかに津波が大きかったかの証拠です。


物資支給

すごく細くクネクネした山道を通って移動するしかありません。


朝は15cmほどの水かさが、夜には、50cmほどに・・・釘を踏まないように祈りつつ300mほどの距離を移動。


宮城県気仙沼市の全壊した教会跡でお祈りしました。



気仙沼市のAさん宅(印刷所)

気仙沼市のAさん宅(印刷所)

イスラエル医療チーム(南三陸町)